12日に奈良・大阪・熊本の4人と合流し、今回の旅のメインである利尻・礼文の旅は利尻水道をシーカヤックで渡ることから始まった。水道の幅は約20㌔㍍、北東に流れる1~1.5ノットの潮流があるが怖いのは風と波。予報では波高1㍍、南西風4m/s 以下の好条件、行かない手はない。眼前に利尻山の鋭鋒が見えているのも心強く、稚咲内から早朝の凪の中を漕ぎだした。5時間弱かかって利尻島沼浦につけ、M氏とW氏との再会の後さらに沓形まで進んでキャンプ。利尻・礼文の旅は好調な滑り出しとなった。
翌13日は雨の中の利尻山登山。キャンプ地の沓形から山頂を踏み、鴛泊へと下った。
14日はレンタサイクルで島1周のサイクリング。この日は晴れたが風が強く、15日も風待ちの停滞。沓形のキャンプ場は居心地がよいのがありがたかった。
16日、朝起きるとまだ8m/sほどの西風が吹いていた。風は次第に収まる方向にあったので、ゆるゆると支度して午前6時頃から漕ぎだす。磯波が立っていたので、最初それに向かって直角に進み、風浪が一定になるあたりから北西に進路を転じた。わずか10㌔㍍ほど先の礼文の島影はかすんで見えなかったのだが、その輪郭がはっきりとしてくるとパドリングも力強くなる。2時間半で礼文島南端の知床の村はずれに着
けたが、この日はビールを求めて宇遠内まで漕ぎ進んだ。
17日、礼文島は船泊に上げて終わる予定だったが、今はそこからフェリーは出ていないとのこと。図らずも香深の港まで漕がなければならなくなってしまう。私の失敗で結果として礼文島1周になってしまった。礼文島の西海岸は、荒々しい岩壁で構成されていてこの風景を海から見られるのはカヤックの特権と言ってもいいだろう。
あいにく霧が島の上部をおおっていたが、それも神秘的で悪くない。澄海やスコトンの岬から眺めた寒々とかすむ景色や首筋を洗っていく冷たい風、金田ノ岬のゴマアザラシの群れとの出会いは、北の海を漕いだ証のように思う。最後に東海岸を南下して香深の港にカヤックを上げると北海道を旅行中のNさんご夫妻が迎えてくれ、私たちの利尻・礼文の旅は終わった。
※稚内に帰るフェリーにカヤックを積んだが、自転車並みの料金だったのには驚いた。
知床はその自然の厳しさから人間の干渉をまぬがれてきた日本では数少ない地である。その荒々しい海と海岸に憧れて、2006年8月にウトロから相泊まで旅しオホーツク海側は険しく、海岸線にそそり立つクンネポールや五湖の断崖。海へと一気に落ち込むカムイワッカやに圧倒される。知床岬の番屋跡は柱だけが立ち残り、野に果てた獣の骨のように風にさらされていて、この地の営みの厳しさを偲ばせる。太平洋側では、泡立つ波に翻弄されながら向かい風にさからって漕いだ。それでも、お花畑を見にペキンの鼻へ登ったり、鮭を釣り上げチャンチャン焼きを作ったりする余裕は、力のあるメンバーのおかげである。
2回目は2013年7月、逆コースをとったが、前回とはうって変わったベタ凪。「これは琵琶湖より静かだ。」などと言いながら、海岸線をなめるように漕ぎ巡り、前回は見られなかった入り江や奇岩を探った。カシュニの滝の滝の水をパドルですくえるほど岸
辺に寄って進む内に、通り抜けのできる洞窟に出会えたのも、おだやかな知床の恵みのように思える。いずれも2泊3日の航程で、海岸にキャンプしながらの旅となる。夏、グマやキタキツネ、エゾシカはあちこちにいる。食糧は臭いの出ないように梱包して食事の場所と同様に寝る所と離すのは常識。何であれゴミなど決して残してはならない。これは人と獣が互いに安全でいられるためである。
知床の山の中に何があるのか知りたくて、カヤックとは別に雪の残る春にテレマークスキーを駆使して半島の主脈を岬まで行ったこともある。
いずれにしても知床の手つかずの自然の魅力と迫力は、カヤックや徒歩という頼りない手段で旅してこそ、より強く感じられるのではなかろうか。この地に一歩踏み入ると、わが身が小さく思えて、自然を守るなどという尊大な気にはとうていなれない。自分の痕跡を最低限に留めながら密やかに旅するだけである。
天塩川は北海道の名河川である。名寄から河口までの150㎞をシーカヤックで下った。その間に堰堤は一つもない。もっと上流域からとも考えたが、堰堤も多く、舟も変えなければならないだろう。
8月20日の夕方には翌日の宿泊予定地「びふか温泉」まで回送用の車をまわし、食糧等を買い込んで出発準備を整えた。1日目
早朝より漕ぎ出す。川の流れは速く、川幅いっぱいに流れていて滔々という形容がふさわしい。早瀬やテッシが諸所に現れるが、これが単調さを破ってくれて楽しい。テッシの岩が現れることもなく、かといって荒瀬になるほどでもなく、程よい水量だったのだろう。流れが手伝ってくれて正午を待たず、びふか温泉に着いてしまった。いったん上陸して車を回送し、さら20㎞下流の「天塩川温泉」まで下ることにした。午後も快調に下り、温泉に入ってから河畔でキャンプ。50㎞ほど漕いだことになる。
2日目
未明に起き、車をゴールの天塩まで回しておいてから出発。尺取虫方式より最初からこうしておくほうが、よほど効率がよかったように思う。瀬はめっきり少なくなるが、流速はあまり変わらないようだ、瀞場のように見えても、休憩で河岸に上がるとその速さが目に見える。松浦武四郎が北海道と命名した記念の地で大休止。対岸を宗谷本線の1両列車が走る。この日は歌内橋上手左岸の気持ちの良い河原に上げてキャンプした。今日も50㎞漕いだ。
3日目
早朝、出発。流れはしだいに緩くなり、天塩大橋あたりでほぼ止まる。前方に利尻の鋭鋒が見えるのを喜んだ間もなく、大橋手前3㎞ あたりから強い向かい風が吹きだした。橋の右岸に着け休憩をとる。行くかやめるか少し迷ったが、残りわずか18㎞である。「行こうや」というⅯさんの一言で、逆風の中を漕ぎ出す、川幅が広く遮るものがないせいか、うねりまで起きている。「海と変わらんじゃん」と悪態をついても耐えて漕ぐしかない。オトンルイ発電所の風車が近づかず、遠ざからず、わずかな距離に悪戦苦闘した。山も海も川も、なかなかただでは帰してくれないものだ。右手に砂丘が現れる。天塩の流れが運んできた膨大な量の土砂が造った砂嘴に違いない。川底も浅く、パドルブレードが砂を噛む。この辺りまで接岸できる場所ははほとんどなかった。最後の天塩河口大橋を凱旋門のようにくぐると、河口公園のカヌーポートまで3㎞、風に耐えて漕ぎぬいた。
※北海道開発局の天塩川地図が参考になる。https://www.hkd.mlit.go.jp/as/tisui/vkvvn800000018jy.html
天塩川の旅を終えて、私たち夫婦はゆっくりとキャンプをしようと朱鞠内湖に立ち寄った。朱鞠内湖は昭和18年に雨滝川を堰き止めて造られた。完成当時は日本一広い人造湖だったそうで、戦時下の過酷な労働で生まれた湖面は、自然と静謐に今は満たされている。
湖をカヤックで1周するつもりだったが、目の先の藤原島と陸地を結ぶ線より先は立ち入り禁止だと管理人から知らされる。「そこまででも2㎞もあるし、南風が吹いたら戻れなくなる。過去にもカヌーがひっくり返って死んだ人もいる」とのこ
と。天塩川を150㎞、秒速10数mの逆風を漕いできた我々でも、聞くだに恐ろしい話だから、従うしかない。「チェックアウトは午後3時、昼過ぎには湖畔のいいサイトが空くよ」というアドバイスを胸に、テントサイトを回ってみる。みんな車横付けでテントを張っている。湖畔近くで昼食をしていると下のテントが撤収をはじめ「ここ、いいですよ」と声をかけてくれた。ありがたく、後を使わせてもらう。
午後からカヤックを下ろし、許可範囲内を漕いで回った。盆栽島と陸地の間は地形図では湖水になっていたが、現状は陸つづきで通り抜けできない。隣の兎島もつながっていたから、年月を経て土砂が堆積したのだろう。風はなく、鏡のような水面に岸辺の木立が映る。その中に立つ舎利幹をさらす枯れ木が孤老を思い起こさせ、いつまでこんな旅がしていられるのだろうかと感傷を誘う。
夕食を終え焚火の小枝に火をつけた。ほろ酔い眼に炎が揺れ、朱鞠内湖の夜は静かに更けていく。晴れやかな日の下の立ち枯れより、闇の中で燃え尽きる火のような死のほうがよいか、ふとそんなことを思った。
※2023年5月に湖畔で釣りをしていた男性がヒグマに襲われて死亡している。熊はその後、駆除された。男性の不運で早すぎる死を悼む。)
2014年の夏、新日本海フェリーの船旅で小樽に着き、美国町の小泊で車中泊した。翌早朝、目の前の海水浴場から漕ぎだし、西に向かって積丹岬、神威岬を経て珊内までの予定だったが、最後に強い向かい風と風浪にはばまれて珊内直前の窓岩までとなった。そびえたつ岩壁に「女郎子岩」などの岩塔、岸辺を彩る緑と花々。ときおり差しこんでくる太陽の光に映える積丹ブルーの海の色はここだけのものだろう。
2018年のメンバーは7人の大所帯。4年前には東から西に回ったが、今回は逆である。風や海流を味方にしたかったなら、このほうがよいと思う。珊内から美国まで、50数キロを2日で行くので楽な航程。回送の車など、すべて整えてから泊村の盃キャンプ場に泊まる。入口に温泉もある上、無料なのはうれしい。
1日目
珊内まで移動して朝凪の内に漕ぎ進む。前回の終了地点のノットの舟揚げ場で休憩してから窓岩へ。柱状節理の岩島でその一部が抜け落ちて、窓のように貫通していた。陸からは見えず、前回気づかなかったが、これで納得できた。
シシャモナイの滝、これまた海を行く者だけが見られる景観である。さらに進んで西の河原に上げた。「にし」の河原と思っていたが、どうやら「さい」の河原と呼ぶらしい。それにふさわしい雰囲気ではある。
次の目的地、神威岬を目指す。風は予想通りの追風で舟はよく走るもののウサギが跳ぶほどになった。いったん岬の袂の港に上げて休憩。気合いを入れ直して毛羽立つ海へ。
岬の突端は荒れるのだが、神威岩との間が通られたのは幸運だった。バシャバシャの波を漕ぎ抜け、風裏に入ると嘘のように穏やか。断崖下のゴロ石の浜に上げて休む。
神威岬の遊歩道までの踏み跡は、草におおわれて消えている。そこを登り、遊歩道に出ると立入禁止の看板。どうやらいけないことをしてしまったみたいだ。
岬の灯台は、イベントで開放されていて、中に入ることができた。海上保安庁の人がいて、「ずっと見えてたよ、風速は20m/Sほどだったけど、よく来たな」みたいなことを言ってくれた。灯台は螺旋階段と照明設備だけのシンプルな構造だが、光は36キロ先まで届くとのこと。新日本海フェリーで小樽へ近づくとき、この光を見たことを思い出す。
この日は予定通り野塚の浜に上げ、野営場にキャンプした。多くのテントが張られていたが、ここも無料で、トイレ、炊事場もある。
2日目
夜中じゅう波の音がしていた。未明に起きてみると磯波が立っている。女房と2人だけだったら、多分やめにし
ていただろうが、みんな行く気満々である。巻いて押し寄せる波の狭間をねらって漕ぎ出した。沖は穏やかである。磯波は風ではなくウネリのなせる業なのだ。
しかし、これだけウネると着岸できる場所も限られる。そう思いながら積丹岬へ。岬辺りでは案の定、波にもまれた。こんなときは各自がそれぞれに身を守ることになる。言わば親不知、子不知の状態だが、仲間がいるのは心強い。
このウネリの中でも島武意の浜に上げられたのはありがたかった。おまけに、北海道旅行中のNさん一家にも会えた。運のいい日というのはあるものなのだ。
次は幌武意の港で少し休んだ。あとは右手の断崖を眺めながら漕ぐ。黄金岬と宝島が見えてはいたが、思いの外時間がかかった。海水浴客でにぎやかな美国の浜に着いたのは正午過ぎ。
車回収組と後片付け組に分かれて終いをする、時間がかかったが、一切を終えて、厚真にあるMさんの「ふくろうの宿」へ。Nさん一家も合流してバーベキュー宴会で打ち上げた。
釧路川はその水源である屈斜路湖から下るにはシーカヤックは無用の長物で、もっと小回りの利くリバーカヤックのほうがふさわしい。カヤック通行禁止の箇所もあるそうだから、いずれにしろすっきりとはいかないようだ。
そういうわけで、我々は塘路湖の元村キャンプ場から細岡のカヌーポートまで、ガイドツァーのコースを下ることにした。湿原の中を蛇行する釧路川のゆったりとした流れに舟をまかせ、鳥の鳴き声を聞きながら下るのはなんとも気持ちのよいものだった。最後は釧路本線に乗って帰りたかったが、効率を優先させて、回収用の車を手配しておいたのは、少し残念な気もする。
屈斜路湖は日本最大のカルデラ湖で周囲は57㎞もある。その湖岸にはいくつかの温泉が湧き出でており、それをシーカヤックで回ってみた。
和琴共同浴場、池の湯、砂湯と訪ね、最後にコタンの湯に入った。あまり手入れされてなかったり、閉鎖されたような雰囲気もあったが無料なのはうれしい。波も風もなく、湖の漕行は何の不安もない。本当は中島に上がって、山に登ってみたかったのだが、上陸が禁止されていてはそれはできない話である。残念
春に山スキーに来て、ウィンザーホテルから洞爺湖の中島を眺めた時、カヤックで島に渡り、山に登ることを思いついた。調べてみると観光船も出ており遊歩道も整備され、最高峰がトーノシケヌプリ(西山)とのこと。
洞爺キャンプ場に泊まり、翌6日早朝に漕ぎ出す。曇天無風の好条件のもと、左手に昭和新山、有珠山を見ながら快調にカヤックを走らせる。島に近づくと岸辺にはエゾシカが跳ねる。中島に着き、観光船の船着き場の手前の浜に上げたもののまだ誰もいない。始発
便の到着を待ち、入山名簿に記入して、ゲートを開けてもらう。早く出てきたものの、結局は8時半近くの入山になってしまった。
遊歩道はよく整備されていて、木くずの道のクッションが心地よい。峠様のところから左にとり不明瞭な踏み跡をたどる。なかなかの急登で、ピンクのテープやロープがあるものの、廃道に近い状態であった。最後に道を見失って、わずか薮を漕いだ後にトーノシケヌプリの頂上へ出た。ブッシュにさえぎられて、頂上からの展望はあまりよくない。3等三角点がある。
遊歩道までもどったのち、さらに北へ進んで大平原と名づけられた開けた場所に出た。小さな島の大平原とは洒落がきいている。ここで小憩してから、島の東岸を周回する道を歩く。湖岸の道は緑濃く、洞爺湖の水面の輝きを垣間見ながら行くのは心地よかった。
帰路は西岸を回った。やりたいことをみんなやって、思い残すことなく島を後にした。
東北の海は三陸海岸を1度漕いだだけだが300キロ近い距離は半端ではなく、鎮魂と震災の爪痕を見る旅となった。
三陸海岸へ向けて北上の海旅。どこまで行けるかは、天気、体力、運次第。
1日目
初日は日本三景の松島から石巻湾を横切って田代島まで。
松島を出るまでは順調だったが、釜石湾の横断で逆潮と逆風に悩まされた。 田代島の港はキャンプができない。そう告げた村の若い人が親切に丘の上のキャンプ場まで車で運んでくれた。この島は猫の島と知られているようで、たくさんの猫を見た。テントにできた爪痕はよしとしよう。(事前に車を1台女川へ配送しておく)
2日目
昨日の若者が見送ってくれるなか田代島を離れる。今日は金華山経由、女川までだ。 11時過ぎまでは下げで、湾から沖へ向かって潮が流れる。これに乗って朝凪の間に漕ぎ進む。 黒崎からは霧が濃く視界50mほど、漁船のエンジン音に気をつけながら行く。
金華山の浜に上げてから黄金山神社を見物。これは寄磯崎を回って女川湾へ入るための時間調整でもある。正午を過ぎれば転流し上潮は湾内に向かう。作戦成功で今日は楽に漕げた。女川原発を左に見て進み、震災の爪痕も痛々しい港へ入る。復興工事進展中。
3日目
今日は神割崎まで30数キロの予定。女川湾を下げ潮を利して出島へ向かう。狭い水道の浜で休憩の後、さらに白銀崎を目指す。 次の休憩は黒磯を回った小さな入江。目の前には、北上川河口につながる広い湾がある。そこを横切ってウサギ島へ。追い風と追い波にせき立てられるように漕ぎ、神割崎を回り込んでキャンプ場下の浜に上げて今日の航程を終える。
(松島の車を回収、神割崎に1台配送)
4日目
快適な神割崎のキャンプ場を後に気仙沼を目指す。港は復興著しいものの、大きな港はカヤックには敷居が高い場所だから、そこへ入らず、大島奥の小さな浜をゴールにした。大島には本土と結ぶ橋が架けられつつあった。 今日は雨に降られ、少し波にもまれた。それでも気仙沼の西湾に入るとおだやかなものだった。
(女川の車を回収、碁石海岸へ1台配送)
5日目
今日は碁石海岸まで短い航程。唐桑半島を回り込んで、巨釜半造、折石を見物。 碁石海岸に着いたと思ったら、昨日入った黒崎温泉がある港だった。ひどい誤算。碁石海岸に向ったが、途中で濃い霧に包まれる。わずかな距離だったのでコンパスも用意してなく、GPSで現在地を確かめると、ずいぶん南に寄っていた。視界100mほどの霧が晴れると、思わぬ近さに港があるではないか。碁石海岸キャンプ場に上げる。(神割崎の車回収、小白浜へ1台配送)
6日目
大船渡から唐丹湾まで5つの湾を渡り、綾里崎、首崎、死骨崎と3つの大きな岬を回った。
南からの追い風と追い波には助けられるものの、岬先端は荒れるとのためしのとおり、カヤックはもまれっばなし。おまけに風裏の入江にさえもウネリが入って、陸地に上げて休憩もとれなかった。
唐丹の湾に入るまで、ほぼ7時間漕ぎっぱなしは、久々にきつい航程となった。
石巻の小白浜まで一緒に漕いだMさんは所用のためここをゴールとした。1週間の海旅おつきあいいただいたことに感謝。一抹の寂しさを覚えながら宮川さんと別れる。
(碁石海岸キャンプ場の車回収)
翌日は荒天のため休養を兼ねて遠野村観光
7日目
今日からは女房と二人になる。唐丹湾を漕ぎ出し、尾崎を回る。鋭く尖った岬は、わずかなウネリや風で難所になるが、この日は、ウソのようにおだやかだった。昨日、荒天を、予測して1日待った甲斐があったというものだ。
でも、そうは簡単に行かせてくれないのが海旅。難所はこの先の三貫島だった。休憩しようと寄った岸辺は波が騒ぎ、突風が渦巻いていた。飛沫が飛びパドルがとられるほどの風だったから、瞬間的には20m/Sはあっただろう。ほうほうの体で対岸へと逃げた。
次は両石湾を渡った大釜崎の逆潮。漕げど進まぬ状況。パドルは重く、手を止めるとたちまち目的地から離れていく。こんなときは、岸に上げて待つのが一番なのだが、時間がそれを許してくれない。
今日中に御前崎を越えて山田湾を渡っておきたかったからである。でも、とうとう力尽きてしまった。霞霧ヶ岳の東にあたる海岸線で泊まるのに適した場所を探しながら行く。 最後の難は上陸にあった。砂利浜は、ウネリが入ってなければいい上陸地なのだが、白い波が立っている。慎重に乗り上げ場所を観察した後、一気に突っ込んだが、岸辺でグズグズしている内に、次の波にカヤックがさらわれ、足を払われた私はつんのめって倒れ、女房は向こう側で下敷きになっている。そばで見ていると大笑いものだろうが、当人たちは必死である。なんとか浜にカヤックを引きずり上げて、一段落。奮闘の甲斐あって、とてもいい泊地を得ることができた。テントを張って、ビールを飲んで、月が昇って星が降る。いい夜だった。
8日目
最終目的地の宮古までわずか。この日は曇天で終日静かな海。潮流も感じるほど強くはない。昨日故障したラダーも修理した。 山田湾口を横切り、トド崎と快調に漕ぎ進む。トドとは魚扁に毛と書く。毛のある魚?うまい当て字だ。何の漁だろうか、たくさんの小舟がすごいスピードで行きかう。閉伊崎までは沖を行く。閉伊崎は碁石海岸に似た美しい入江だったので、岩の間を漕いでみた。
霧で見えない岸を目指し見当で漕いで行くと白い岩の浄土ヶ浜が見えてきた。遊覧船が出入りする入江に入り階段の岸に着ける。
あと1日、北山崎を越えて行く考えがふと頭に浮かんだ。満腹のくせにデザートを欲しがっている。その時、激しく雨が降りだした。これで未練断ち。8日間の海旅の終わりとなる。
佐渡島は本州等を除けば日本で一番大きな島。これを一周した。メンバーは女房とIさん。使用艇はフジタカヌーのA1とノア 。足は速くないけど安定性はいい。
8月2日に長岡の花火を見てから翌3日、フェリーで新潟から両津へ渡り、準備を整えて赤泊を起点に漕ぎだした。その日は宿根木の先まで。泊はすべてテント。
4日は沢崎から真野湾の口を横切って稲鯨へと渡った。七浦海岸を行くまでは良かったのだが、相川へは逆風と波に悩まされた。相川では買い物と温泉を楽しんで、夕方に千畳敷まで進んでテント泊。
5日は尖閣湾から外海府の海岸を漕ぎ進んで大野亀から二ツ亀へ。夕陽が格別綺麗だった。
6日は弾崎を回って姫崎まで両津湾口を横切る予定だったが、両津で温泉と食事をしたいという希望を容れて寄り道をした。
最終日の7日は、姫崎を回って前浜海岸を漕いだ。海岸線が単調で一番しんとなったが、5日間100数十キロメートルを漕ぎ抜いた充足感を覚えながら赤泊港へともどった。
三河湾を漕ぐのは初めてだ。古い山の友人がファルトを準備してくれた。 前日に恵比寿海岸で合流。 ここはコパカバーナかと思うほど外国人が多かった。 夜はたまたまあった花火を見る。
翌朝、漕ぎ出す。 朝の間、風があって、朝凪ならぬ朝波のなかを行く。 佐久島には1時間半ほどで着いた。
東港の脇の砂浜に上げた。 貸自転車を借りて、早速島内見物に出かける。 あちこちにアートの作品があって、それを巡る。 島を一周してから、お目当ての大アサリ丼の店に。 開店前だったけど、店前のテーブルでビールを飲みながら待つ。 ツマミとケーキまで出してくれたのは、サービスではなく、親切心からだろう。 大アサリ丼はアサリ入の玉子丼という感じでシンプルだったが、美味しかった。 昼食を終えて、帰路につく。 追い風のため、風を感じなくて暑かった。 途中、ヨットレースに出くわした。 ジャマにならないよう観戦。 梶島の浜に上げて休憩し、もう一漕ぎで恵比寿海岸にもどる。
友人にはお世話になった。 いい島、いい一日だった。
日本の海をシーカヤックで旅するのに、
今ノトコロこれに優る入門書はないだろうと自負しています。
これから始める人も経験者も、ぜひ一度読んでみてください。
第1章はシーカヤックで海を旅するために必要なノウハウ
第2章は私のシーカヤックのフィールドと紀行になります。
途中に挿入されたエッセイもお楽しみください。
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